成城の町の「知る人ぞ知る」あれこれ情報。
年末になると成城駅前に、刺しこ風の印半纏を着た職人さんが、松飾りや裏白を売っていた風景が、3年前ぐらいから店がたたなくなり、変わって駅前の植木屋さんやスーパーマーケットの店先に松飾りが並ぶようになった。また門松もすっかり影をひそめてしまった。一つには門松を作れる職人が減ったことや、原料の藁も手に入りにくくなったのかもしれない。石原裕次郎さんのお宅のあの立派な門松が懐かしいきょうこのごろである。
*写真左から2016年、2017年の駅前風景。3枚目より今年の風景。
野上彌生子は戦後すぐの昭和23年成城へ越して来たのだが、昭和11年の彼女の日記に、「5月2日、砧の市河さんに行く。・・・駅まで見送って貰う道すがらなほ成城見物をして帰宅。どこの家も瀟洒におもひおもひの趣味を家や垣根に示しつつ、幸福に平和らしく住んでいる。・・・煤ぽい(火へんに某、すすっぽい)空気と埃まみれの汚い花一つ植物一つ見つからない町に生活してゐる人たちから見れば、何か天国じみた美しい場所に見えるに違いない。」と書いており、成城学園がめざす「公園のような街」を彼女も夢見て成城に越してこられたようです。
野上彌生子の日記は、世田谷区の「成城町の誕生と形成」から。
成城は新しい街で神社も寺院もない。大正末期、誰も住んでいない、電気・水道・ガス・電話も小田急もない高台の原野に 成城学園が新宿牛込から引っ越して来ました。同窓会地所部が街を作り、朝日新聞が近代住宅展示場で建売をやったり、東宝(東京宝塚)ができたり文化人が住んだりで、現在の街が出来たが神社や寺院はありません。
成城の街が出来た時の住所は、東京府北多摩郡砧村大字喜多見小字東之原、一方喜多見は江戸時代より前からの大きな村で、江戸氏の領地、徳川家に江戸の名前を献上、北見(木多見)姓を賜る。古くから氷川神社、慶元寺、知行院などがあり、成城の新住民は当時から氷川神社へ初詣に行った。今でも新居の地鎮祭には氷川様の神主さんをお呼びしている。
写真でお分かりのように、正月には百メートルからの行列が出来、お神楽の奉納もある。
また暮れの31日には、慶元寺、地行院ともに除夜の鐘を突かせてくれ これまた順番待ちである。
アメリカでこのホームページをご覧になっておられる方が、6月4日に延べ800人になりました。有難いことです。
やはり成城とアメリカの関係が深いことがよくわかりるお話を2つお伝えいたします。
先ず1つ目は、米国独立200年記念に日本から送ったサクラのお礼に、アメリカハナミズキが成城の家庭ににもたくさん送られました。今年の春も多くのご家庭できれいなハナミズキが咲きほこりました。
2つ目、3丁目の大きなユリノキ(チューリップツリー)のあるお宅が、宅地開発されることになった時、オハイオ出身の米国人の方が「オハイオ州の木を切らせるわけにはいかない」と、一括買い取って立派なお宅をお建てになり、ユリノキを守ってくださった。
今後も成城とアメリカの「知る人ぞ知る」関係を、お伝えしたいと思います。お楽しみに。
中川 清史
ご承知のように成城の台地にはお寺も神社もない。成城には大正末期までほとんど人は住んでいなかったので当然である。当時の成城は「砧村字喜多見大字上の台」だったのである。しかし喜多見は江戸時代になるまで江戸氏の領地で、
後に太田道灌により徳川家康に江戸を献上、北見姓を賜るのである。江戸家の菩提寺「慶元寺」、古刹「知行院」は大晦日23時半から除夜の鐘をつかせてくれる。また、知行院はお焚き上げにも参加できる。喜多見氷川神社は埼玉氷川神社に並ぶ有名な神社である。成城上の台は、喜多見の大百姓やお寺等の災害時の避難場所だったのである。逆に成城の街が出来てから、成城の住人は大晦日は喜多見のお寺で除夜の鐘をつき、元日は氷川神社に初詣に行ったのである。
いまでもその習慣は続いており、私も孫たちと除夜の鐘をつき、元日に氷川様で破魔矢を頂いて来たのである。
中川 清史
昭和10年頃の近代建築でもある旧M邸(現S邸)のお庭の一部のイングリッシュガーデンが解放され
「こもれびの庭市民緑地」になって居り、管理はトラストのボランティアがやって居る。
このお庭の西側に立派な3本のヒマラヤスギがあり、母屋の洋館をしっかり引き立てて居る。
早春には、ヒマラヤスギの足元を多くのクリスマスローズたちがいろどり、それは見事なものである。
早春のお散歩に、おすすめである。
成城三丁目のヒマラヤスギと「こもれびの庭」
昭和初期、成城学園後援会地所部が人がほとんど住んで居ない台地の原野に
イギリスの田園都市構想にならって住宅地を造った時、和風のお宅にはアカマツを、
洋風のお宅にはヒマラヤスギを3本お願いしたという。
青山の業者から仕入れたヒマラヤスギが200本。60軒のお宅に3本、最後が
学校の正面をまっすぐ西へ800m、国分寺崖線にぶつかったところのK邸のご主人が、
「よし分かった。残った20本は私が引き取る」といわれ、今でもこの辺りにヒマラヤスギが多い。
今でも3本そろって残って居るお宅が、3丁目の「こもれびの庭市民緑地」他何軒かある。
また、成城学園が斡旋した以外と思われるものも、9丁目の総合工科高校に数十本、
4丁目のみつ池開放緑地に20本、1丁目の東宝くろがねやに8本、実にヒマラヤスギが多い街である。
成城の冬の風物の一つに四丁目のお宅の門にある古木の「松の雪つり」があります。
11月の中ごろになると植木屋さんが、手入れの行き届いた松に上り、一本一本縄を結んでいきます。
12~3年前、四丁目のビール会社のゴルフの練習場とテニスコートがマンションと野川緑地広場になりました。
その間の道に超高木のケヤキ並木ができました。
広場にも学童が植樹した落葉樹も立派に育ったが、並木のケヤキは本当に素晴らしい。
世田谷一のケヤキ並木ではないであろうか。今年もきれいに紅葉しております。
成城4丁目のヒマラヤスギ
成城学園の正門から、まっすぐ西へ800mの突き当り、4丁目の交差点の先に立派なヒマラヤスギが何本もあります。昭和初期、成城学園が成城の街づくりを始めた時に植えられたヒマラヤスギです。和風建築の屋敷にはアカマツを、西洋館にはヒマラヤスギを3本以上植えるようにと、建築主に頼んだそうです。4丁目の交差点から神明の森みつ池にかけてヒマラヤスギが多いのは、成城学園が西洋館を建てた方々にお願いして、最後に20本ほど残った時に、この地に家を建てられていたK氏が「任せておけ」とすべての樹木を引き取って植えられたためです。
この他、今でも3本そろったヒマラヤスギが成城には何か所か残っています。その一つが市民緑地「こもれびの庭」に見られます。
(中川記)